佐賀関の歴史を考える
History of Saganoseki
第1回 佐賀関街道を駆け抜けた坂本龍馬
坂本龍馬は文久4年(1864年)2月15日に、勝海舟(注1)に伴って長崎に向かうために佐賀関に上陸し、徳応寺に宿泊しています。その目的は、オランダ、アメリカ、イギリス、フランスの4カ国の下関砲撃中止の交渉のためで、幕府から長崎出張の命を受けた軍艦奉行並の勝海舟が、海軍操練所塾頭である坂本龍馬を連れ立って訪れました。その時の徳応寺住職の東光龍潭が記した名簿の中に坂本龍馬の名前が記されています。
勝海舟
徳応寺の記録
(髙橋幹雄さん談)
「徳応寺宿泊時の坂本龍馬は土佐藩の脱藩浪人でそんなに影響力がなかったと思われ、偽名を使っていないんです。名簿は徳応寺住職の東光龍潭が記したものですが、龍馬自身の筆跡に何となく似ているんですよね(笑)。龍馬の字は天真爛漫で奔放なんです。そんな龍馬ですが、この時の役割は勝海舟のボディガードのような存在ではなかったかと思います。
勝と龍馬の出会いは、龍馬が千葉道場の息子(千葉重太郎)と、勝を殺すために会いに行った時(勝曰く「俺を殺しに来たやつ」氷川清話)に、勝から世界地図を見せられ、世界と日本の状況を聞かされ、日本も植民地化されるような危機的状況であることを教えてもらったのではないかと。それ以降は勝に師事していくことになります。そんな経緯もあり、佐賀関から長崎への(往復)40日間は勝との密な時間であり、龍馬にとって大きなターニングポイントであったと思っています。勝の頭の中には「今の幕府ではやっていけない」との認識が既にあったかもしれません。幕府に変わる勢力として、(下関砲撃中止で)長州の力を温存したかったのかもしれません。龍馬もそのような勝の考えを聞いていたのではと思っています。
龍馬は地頭がよく、かつ教養があったのでしょう。姉乙女の教育もあり、剣術のみならず教養も身に付けていたのだと思われます。但し、江戸修行までは剣術で身を立てることしか考えていなかったと思います。色んな人との関わりで変わっていったのですが、龍馬が大きな仕事をするような考え方をできるようになったのは、この時の佐賀関~長崎の道中で勝と多くを語り合ってからだと思っています。
また、この道中、肥後で横井小楠(注2)にも会っています。龍馬は横木小楠に国是七条の説明を受けたと言われており、それをもとに船中八策(注3)を考えたとも言われています。」
(質問)
「1864年当時の佐賀関はどのような状況だったのでしょう?」
(髙橋幹雄さん談)
「当時の佐賀関は蒲江と同じ位の規模で、人口3千人程度だったと思います。そして、佐賀関は肥後藩の飛び地で風待ちの港でした。肥後藩が他所の領地を通らずに参勤交代したいので、佐賀関の港を経て江戸へ向かっていました。大きな寺が見晴らしの良い高台に4つもあるのはそのためです。この辺り(高橋水月堂)が波打ち際で、筋向いは船宿が並んでいたのです。産業は漁業と船宿が中心だったと思われます。実は造り酒屋もあったのです。
龍馬は佐賀関で米団子を買っています。多分、早吸日女神社にも来ていると思います。道中の安全祈願もありますからね。龍馬のことですから、この辺りで立小便もしたと思いますよ(笑)。食事は徳応寺でしたようですが、その詳細は分かっていません。龍馬は酒を呑むので、関でも結構呑んだとは思います。」
明治初期の早吸日女神社
徳応寺
(質問)
「佐賀関から長崎への(往復)40日間が龍馬の人生のターニングポイントとのことですか、その後の行動にどんな影響を与えたのでしょうか?」
(髙橋幹雄さん談)
「先ほども言いましたが、坂本龍馬は頭が良かったので、勝の話をよく理解したのだと思います。この後暗殺されるまでの3年半はすさまじい活躍です。1865年亀山社中の結成。結成に当たってはグラバー(注4)や長崎商人小曽根家などの知恵を借りたのだと思います。社中は近代的な株式会社に類似した組織だったので、龍馬は日本で最初のアントレプレナーとも云えると思います。グラバーから武器を仕入れて、薩摩の船を使って長州に売っていたようです。これが薩長両藩和解に繋がりました。そして、1866年の薩長同盟で重要な役割を果たします。
私は龍馬を「究極のコーディネーター」だと思っていますが、薩長同盟ではいかんなくその力を発揮したと云えます。」
小松帯刀
トーマス・ブレーク・グラバー
(質問)
「薩長同盟の首謀者は小松帯刀(注5)ではないかとの説もありますが?」
(髙橋幹雄さん談)
「小松帯刀は薩摩藩家老で既に幕府には限界を感じていたのでは思います。確かに薩長同盟は家老レベルの力がないと実現しなかったと思います。ですが、龍馬の「やりきる人間性」がなければ実現しなかったと思います。小松帯刀自身が龍馬のような動きをしても実現しなかったと思います。
1867年に亀山社中は海援隊へ。1867年4月には「いろは丸沈没事件」があります。龍馬は大洲藩籍のいろは丸を契約のもと運用していましたが、4月23日の晩、紀州藩の大型帆船「明光丸」と衝突して沈没。紀州藩の過失について万国公法をもとに追求し、83,500両の支払いに同意させます。龍馬の死後、岩崎弥太郎はこの時の資金を使って三菱を起こしたと云われています。「龍馬のやりたかったことを岩崎弥太郎がやった」と云う感じがしますね。
1867年7月の薩土盟約、9月の盟約解消、そして、1867年12月10日に近江屋で暗殺されるわけです。
佐賀関に来た後の龍馬の活躍はすさまじいとも云えます。そう云う意味でも、佐賀関から長崎への(往復)40日間はとても重要な時間(ターニングポイント)だったと考えられます。その時に世界情勢を知り、国家の進むべき道みたいなものを描けるようになったのだと思います。
そんな龍馬の転換点を佐賀関で感じてみませんか。」
※注1
勝 海舟(かつ かいしゅう、文政6年1月30日〈1823年3月12日〉- 明治32年〈1899年〉1月19日)は、日本の武士(幕臣)、政治家[1]。位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵。初代海軍卿。江戸幕府幕府陸軍最後の陸軍総裁。
山岡鉄舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれる。(wikipediaより)
※注2
横井 小楠(よこい しょうなん)は、日本の武士(熊本藩士)、儒学者。横井 時存(よこい ときひろ/ときあり)とも呼ばれる。本姓は平氏で、北条時行の子孫を称していた。諱は時存(ときひろ/ときあり)であり、朝臣としての正式な名のりは平 時存(たいら の ときひろ/ときあり)。通称は平四郎で、北条平四郎時存、北条四郎平時存ともいう。「小楠」は彼が使った号の一つで、楠木正行(小楠公)にあやかって付けたものとされる。他の号に畏斎(いさい)、沼山(しょうざん)がある。字は子操。
熊本藩において藩政改革を試みるが、反対派による攻撃により失敗。その後、福井藩の松平春嶽に招かれ政治顧問となり、幕政改革や公武合体の推進などにおいて活躍する。明治維新後に新政府に参与として出仕するが暗殺された。(wikipediaより)
※注3
船中八策(せんちゅうはっさく)は、土佐藩脱藩志士の坂本龍馬が江戸時代末期(幕末)の慶応3年(1867年)に新国家体制の基本方針を起草したとされる策・文である。
慶応3年(1867年)6月、坂本龍馬はいろは丸沈没事件を解決させたのち、京都に上洛していた前土佐藩主の山内豊信(容堂)に対して大政奉還論を進言するため、藩船の「夕顔」で長崎を出航し、上洛中の洋上で参政の後藤象二郎に対して口頭で提示したものを海援隊士の長岡謙吉が書きとめ成文化したとされ、この「船中八策」が「五箇条の御誓文」となったと言われていた。
・「政権を朝廷に返還し、新たな法は朝廷より定められること(大政奉還)」
・「上院・下院の二院制を敷き、議員を置き、全てを公的に議論して決定すること(議会開設)」
・「有能な公家や諸藩、無名の人材たちを政治に参加させ、名ばかりで実の無い者たちを取り除くこと(官制改革)」
・「外国との交流は、広く意見を求めることで、新しく規約を決めること(条約改正)」
・「昔からの法律の良いところをまとめ、永遠に伝わるような新しい法律を定めること(憲法制定)」
・「海軍を拡張すること」
・「朝廷のための兵を置き、都を守らせること」
・「金や銀や通貨などの為替に関し、外国と平等に取引き出来る法を定めること」(wikipediaより)
※注4
トーマス・ブレーク・グラバー(英: Thomas Blake Glover、1838年6月6日 – 1911年12月16日)は、スコットランド出身の商人。トマス・ブレイク・グローバーとも表記。
武器商人として幕末の日本で活躍した。日本で商業鉄道が開始されるよりも前に蒸気機関車の試走を行い、長崎に西洋式ドックを建設し造船の街としての礎を築くなど、日本の近代化に大きな役割を果たした。
維新後も日本に留まり、高島炭鉱の経営を行った。造船・採炭・製茶貿易業を通して、日本の近代化に貢献。国産ビールの育ての親。(wikipediaより)
※注5
小松 清廉(こまつ きよかど)は、幕末から明治初期の政治家。維新の十傑の1人。旧名は肝付 兼戈(きもつき かねたけ)。通称は尚五郎(なおごろう)のちに帯刀(たてわき)。また明治には従四位下玄蕃頭の位階官職を与えられたため、玄蕃頭とも称された。
薩摩国吉利(2,600石)領主だった薩摩藩士小松家の当主で、幕末に薩摩藩の家老に出世し藩政改革と幕末政局(薩長同盟、大政奉還など)において重要な役割を果たして明治維新の成就に貢献した。維新後には新政府で参与、総裁局顧問、外国事務局判事などの要職に任じられていたが、直後の明治3年(1870年)に世を去った。明治に入ってすぐの病死だったため、その後に明治政府で活躍した同じ薩摩出身の西郷隆盛や大久保利通の知名度に隠れがちであったが、小松家について多く記した玉里島津家史料の黎明館への寄贈により、21世紀にその事績の研究と再評価が進んだ。(wikipediaより)