佐賀関を探検しよう

Saganoseki exploration

平成6年に佐賀関町から発行された「佐賀関街道ー関往還ー」に記載されている名所を、写真と共に(当該本からの)説明を加えていきたいと思います。
表現が旧いために分かりにくい説明もありますが、先ずはこれに従い佐賀関町を探検していきたいと思います。時々番外編も加えます。
(さがのせきのささえ IT担当)

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1.関崎灯台
2.早吸日女神社
3.白ケ浜・黒が浜
4.教尊寺
5.築山古墳
6.椎根津彦神社
7.小野家
8.JX金属関崎みらい海星館(番外編)
9.速吸の瀬戸
10.聴好の祠(あきよしのほこら)

1.関崎灯台

関崎は、またの名を地蔵ケ崎、お鼻とも言い豊後水道に突出した佐賀関半島の東北端にある。
その崖の上の樹間に聳え立つ白亜の鉄製の建築物が、関崎灯台である。この速吸の瀬戸(豊予海峡)は、鳴門・関門の二海峡と並び称されている重要な海峡で、潮流は激しく渦巻き、加えて暗礁も多く航海の難所とされていた。そのために、明治34(1901)年7月20日、はやくも灯が点じられた。光の達する距離約40.7キロメートルで、これに相当する三崎灯台と共に、航海安全の指標として、今日に及んでいる。
(佐賀関街道ー関往還ーより 平成6年)

2.早吸日女神社

早吸日女神社は、神武天皇の東遷の途路、速吸の瀬戸において、海女黒砂・真砂が海底から得て奉献した神体として、祓戸の神々を天皇自ら古宮の地に奉斎し、建国の大誓願をたてられたのが創まりであると伝えられている。
大宝元(701)年、神慮により現在の地に遷座。以来、朝廷・諸大名の尊崇厚く、朝廷より正五位を賜り、延長5(927)年延喜式を制定せられるに当り、式内社に列せられた。
現在の社殿は、宝暦13(1763)年細川重賢が奉納したものである。
県内神社建築の中では、建築の質もよく代表的な建築として高く評価され、本殿・拝殿・神楽殿・総門・一の鳥居と共に町指定有形文化財(当時)となっている。
佐賀関は、神武天皇東遷の伝説にみえるように、古代から瀬戸内海に入る海峡の要衝として早吸日女神社を中心に海部族が割拠し、勢力を誇示していたものと思われる。また、天然の良港を控え、海上交通の要衝としても栄えてきたのである。
建物の内部には、祈祷場・潔斎の間(この二か所の格天井には花鳥画が描かれている)・大名の間(上段の間)などが現存する。県下では珍しい社家の建築物である。
大正11(1922)年に屋根替を行い、その後も一部改造されているが、二百年前の建築物としての面影が残されている。
(佐賀関街道ー関往還ーより 平成6年)

3.白ケ浜・黒が浜

白ケ浜・黒が浜は、佐賀関半島の東海岸にあって、白ケ浜は白石、黒が浜は黒石のみの海浜となっている。打ち寄せる白波と共に、対照的な海岸美を形づくっている。
大黒・小黒の海岸から、幸ノ浦海岸までの海浜は、すべて囲碁にちなんで名づけられ、碁洞浦・白ケ浜・黒ケ浜・手談浦(たぶしうら)と呼ばれている。
この浜の石は、冷暖玉と称し「冬これを握れば暖かく、夏これを握れば冷気を覚ゆ」といわれ、昔から碁石として珍重されていた。白ケ浜の白石は雲母片岩中の石英が、黒ケ浜の黒石は、蛇紋岩がそれぞれ波に打たれ、丸くなったものである。

4.教尊寺

教尊寺は、本町の西部地域(佐賀関町大字神崎字寺畑:旧住所)に所在している。
「佐賀関街道」の旧道は、神崎支所前で国道と合流する。約100メートル東進し、左折して間もなく、海岸に接した広い寺院が目につく。これが、潮音山教尊寺で、開創は寛永18(1641)年で、寺伝によると佐藤正願によって開かれ、初代住職に了円が就任した。
この地域での本山で、熊本藩主が休息できる大書院をもっている。また、これに関連する文書も発見された。
本堂は、東に面し、左に鐘楼、右に経堂がある。昭和61年度大分県近世社寺建築緊急調査の結果、文化財として価値が高いとの鑑定を受け、全般的に、造りの丁寧な風格のある本堂で、書院と共に町有形文化財(当時)に指定されている。(指定月日 平成4年7月8日)
(佐賀関街道ー関往還ーより 平成6年)

5.築山古墳

築山古墳は、昭和7年4月、神社植樹のため鍬入れしていた数人の村人によって発見され、以後発掘が始まる。
古墳は八幡神社の境内に位置し、南側の金毘羅山麓の東北部を利用して築造された西向きの前方後円墳である。5世紀中ごろのものと推定されている。
古墳の規模は、全長90メートル・後円部40メートル・前方部最大幅45メートル・前方部はやや広がっているが、後円部頂より2~3メートルばかり低い。前方部は現在、桜の木が植えられ、春は地区の人々の花見場所となっている。
後円部に石棺2基が各々東西方向をとって併置されている。南棺がやや大きく(長さ1.95メートル 幅75センチメートル 深さ80センチメートル)女性一人を含む三体が、北棺(長さ1.8メートル 幅64.5センチメートル 深さ72.5メートル)には、女性一体が葬られていた。両棺とも緑泥片岩による組合せ石棺である。
鉄製の武具や貝製釧など多数出土しており、海部豪族に相応しい首長権が発揮されていたものと考えられる。
(佐賀関街道ー関往還ーより 平成6年)

6.椎根津彦神社

椎根津彦神社の祭神は、椎根津彦である。祭神椎根津彦については、「日本書記」に、次のような記述が見られる。
神武天皇は、東遷のため日向を出発。統治速吸の瀬戸において珍彦命の奉迎を受けられ、名を椎根津彦と賜わった。
これから、椎根津彦は、水先案内として皇軍に従事し、しばしば勲功をたて、後の倭直部の先祖となった(「古事記」には、倭国造の祖とある)。
これを伝え聞いた里人らが、小祠を建てて命を祀ったものが、その創祀と伝えられている。
(佐賀関街道ー関往還ーより 平成6年)

7.小野家

小野家は、第30代敏達天皇を祖とし、春日王子-妹子王-毛人-岑守-篁-葛弦-好古-寛仁大夫秀長と続いたが、承平6(936)年、藤原純友が伊予において謀反を起こしたため、朝廷は好古を征討将軍として討伐に派遣、秀長も同行して早吸日女神社の神職となり、神社を護持すると共にその勢力を以て佐賀関を防衛したと言い伝えられている。
天慶4(941)年、純友は捕らえられ天慶の乱は終る。その功績により好古は中将に任ぜられ、三位に叙せられたという。秀長の子孫は、引き続き社家として神社に奉仕し、その護持に当たり今日に至っている。
現在の小野家の建物は、当主早吸日女神社宮司小野清次秀崇の六代前、河内守秀真が明和年中(1764~1772)に建築したものである。この秀真は、現在の早吸日女神社の造営・神幸所再建、社山に杉、桧の植林などを行い神社興隆のために力を注いだ小野家中興の祖である。
(佐賀関街道ー関往還ーより 平成6年)

8.JX金属関崎みらい海星館

JX金属関崎みらい海星館は、大分県大分市佐賀関にある天文台及び展望施設等からなる大分市立の複合施設。それまで同所に存在した関崎海星館が2022年5月に改修のため一時休館し、ネーミングライツ契約により2023年7月1日より通称がJX金属 関崎みらい海星館となった。
天体望遠鏡を備える天文台や展望施設等からなる。館内には宇宙について学ぶことができる展示ゾーンや研修室があり、雨天でも利用できる。佐賀関半島先端の関崎の高台にあるため、展望施設からは国東半島、別府湾、山口方向から四国の佐田岬を望む豊予海峡等の広範囲が展望できる。アジサイやスイセンの名所として訪れる人も多く、アサギマダラの飛来地でもある。
(Wikipediaより)

9.速吸の瀬戸

佐賀関半島の突端、関崎と四国の佐田岬の間3.5キロメートルの海峡が豊後水道の中心部で、その中ほどに高島がある。
太平洋と瀬戸内海の干満の差によって生ずる潮流は、渦巻の流れとなって、最大5.5ノットに達し、鳴門・関門海峡に匹敵する景観である。
速吸の瀬戸には、「平礁」と呼ぶ暗礁があって、干潮時には礁の一部を海面にあらわし満潮時には、没するために海の難所とされていた。昭和42(1967)年10月30日、海難防止のため、この礁の上に灯台が建設された。
(佐賀関街道ー関往還ーより 平成6年)

10.聴好の祠(あきよしのほこら)

下浦番所の隣に、地元の人々から「あきよし様」と呼ばれ、古くから厚い信仰を集めている「聴好の祠」がある。
この祠については、文政6(1823)年の「関手永村々の諸堂、宮居、石仏、石祠等の実情を調査したもの」に、次のように記録されている。
(「大友興廃記」にも由来が述べられていますが、難解なので省略します。)

毛利元就の倅聴好は、元就の九州討ち入りの斥候として佐賀関に派遣されたが、臼杵越中守鑑速に誅殺された。
この聴好の祟りを鎮めるために作った祠である。
(佐賀関街道ー関往還ーより 平成6年)