佐賀関の歴史を考える

History of Saganoseki

第2回 「精錬所 ON MY MIND」

JX金属佐賀関精錬所

 佐賀関の歴史を考える上で、日本鉱業佐賀関精錬所(現:JX金属 ※注1)を欠かすことはできません。精錬所の大煙突は長く佐賀関のシンボルでありましたし、また、多くの住民が精錬所と関わってきました。町の興隆と衰退は精錬所の影響を大きく受けてきたと云えますし、佐賀関は「精錬所の企業城下町」と云っても過言ではありません。そんな精錬所への思いを、歴史的事実を踏まえながら、少し巡らせてみたいと思います。

溶鉱炉
大正10年当時の精錬所

「1916年(大正5年)、久原鉱業(日本鉱業の前身)は佐賀関精錬所を建設しました。何故佐賀関の地に建設されたのでしょうか?」

「佐賀関という地名は佐加氏の海の関所であったからとの説もあるくらい、嘗て風待ちの港として良港であったことが理由の一つです。愛媛県の三崎も候補だったとのことですが、海路のルートとしては少し外れていたのだと思います。佐賀関は海運に恵まれ、岬の突端に位置し、排煙の陸地への影響が少ないと考えられたのだと思います。これは私の推測ですが、久原さんは長州や薩摩との接触に於いて佐賀関に立ち寄ったことがあり、「ここがいいかな」と考えていたのではと思っています。私は佐賀関の前に精錬所が作られた日立銅山を訪ねたことがありますが、佐賀関と色んな意味でそっくりだと感じました。おそらく同じ様な歴史を辿ったのですね。」

日立鉱山(日立市歴史博物館蔵)

「当時の佐賀関はどんな感じだったのでしょうか?」

 「佐賀関には古くから鉱山があり、明治27年に精錬所(久原鉱業ではない)が設置され操業されていたため、煙害による被害で耕作物が枯れるなど住民は多くの迷惑を被っていました。久原鉱業の精錬所が建設される前、大正3年に用地買収交渉があり、大正4年には大規模な住民の反対運動があり293名もの逮捕者を出しています。当時の様子を祖父が日記に残しており、暴動を避けるために近所の人達と裏山に避難したことが書かれています。暴動の後に家に戻ると、窓は壊され、汚泥が流され、早吸日女神社の石塔は倒されているといった状況だったそうです。反対派の人達も煙害の経験があるため、切実であったのだと思います。一方賛成派の住民もおり、当時の賛成派地区の人々は現在も「共存共栄」を唱っています。」

「当時の賛成派の人達は佐賀関が栄えることに期待したわけですね」

 「精錬所の操業で雇用が増えることがありますよね。佐賀関は精錬所が出来る前、蒲江と同じ規模の人口三千人未満の漁師町でした。精錬所により町が大きく栄えることに期待していたのだと思います。これは早吸日女神社の寄付者銘板の写真ですが、日本鉱業の銅板なのですよね。日本鉱業の貢献がとても大きかったことが伺えます。そして、朝鮮戦争からベトナム戦争末期までが高度成長期と重なり、最も精錬所が栄えた時期だったと思います。町には映画館が5つあったのですよ(笑)。」

大煙突
大煙突からの佐賀関

「精錬所と云えば大煙突ですが、これにまつわるエピソードはありませんか?」

 「大煙突が出来た時は世界一の高さ(167.6m)を誇っていたのです。ですが、いつの間にか東洋一に変わりました(笑)。精錬の際、鉱石に含まれる硫黄分がもとで発生する亜硫酸ガスが農作物や樹木に影響を与えるので、煙害対策として高い煙突が必要でした。煙が渡り蝶「アサギマダラ」が飛ぶルートに吹く風に乗って、段々と薄まっていくとの思惑です。実際、大煙突の効果で煙害は激減したそうです。また、戦争中は米軍のB29の空爆目標になっていたとの話もありますが、実際には攻撃を受けていないことを考えると、豊予海峡を通る時の(とても分かり易い)目印だったのだろうと思っています。現在の赤白縞模様の煙突は2代目で200mあります。これら2つの大煙突は故郷を離れた人々の故郷を思う縁(よすが)だったとも云われています。」

精錬所病院
日本鉱業佐賀関鉄道 佐賀関駅

「佐賀関は日本鉱業の企業城下町として栄えたわけですが、町との関係はどうだったのでしょうか?」

 「日本鉱業は福利厚生に先進的な企業でした(現在も)。購買会(スーパー)、病院、団地、共同風呂、スポーツ施設(柔剣道場、弓道場、グラウンド、テニスコードなど)が作られ、街そのものが順次作られていった感じです。当時は愛媛県の三崎からも佐賀関の病院に来ていたと聞いています。また、病院では業務上の怪我の手当が多く、腕のいい先生(医師)が多くいたようです。また、スポーツ振興にも熱心で、1977年には日鉱佐賀関硬式野球部が都市対抗野球大会でベスト4になっています。社会人野球日本選手権大会では、1976年に準優勝しています。他のスポーツでも多くの選手が活躍していました。スポーツのみならず、奨学金制度や学生寮の完備など、学業への支援も古くから行っていました。佐賀関は精錬所の福利厚生のおかげで大いに豊かになったと云えます。もうひとつエピソードとしてですが、佐賀関町時代、町であるにも拘わらず商工会議所があったのです。これは精錬所の貿易(関税)手続きに商工会議所会頭印が必要だったからです。精錬所の影響の大きさを感じます。」

「町の興隆衰退と精錬所のとの関連についても少し伺います。1970年に日鉱式自溶炉(※注2)ができたことで、生産増強や効率化が図られました。そこから人口が減っていくようにみえますが? 2万6千人(1950年)→1万4千人(1995年)」

 「合理化による人員削減はもう少し後ではないかと思います。この時の人口削減は社員の持ち家制度が大きな原因でした。佐賀関以外に持ち家を持つことが奨励され、坂ノ市、曙台、宮河内、大在などに住民が流出していきました。佐賀関は土地が高かったこともあり、流出は成り行きとして自然だったのだと思います。今も佐賀関の人口減は止まることはなく、先がとても憂慮されます。精錬所との共存、新しい関係の構築、外部からの移住促進、新しい産業の創生などへの取組みが“待ったなし”の状況です。」

「佐賀関住民と佐賀関精錬所の今後の関係について、髙橋さんの考えを聞かせていただければと思います。」

 「佐賀関精錬所と地域住民との関係(用地、賠償)は新しい形に変わっていく必要があると思います。また、佐賀関精錬所との関係も然ることながら、JX金属全体との関係を強固にし、JX金属の会社方針として佐賀関を応援してもらい、JX金属と共に佐賀関が嘗てのような活気を取り戻すことが望まれます。一方、ある意味では甘え過ぎていた面もあり、日本鉱業があったが故に(私の反省も含め)観光への注力不足があったかもしれません。今後、中国、四国、九州を結ぶ拠点として、サイクルロードなど若い人のアイデアで盛り上げて欲しいですね。しまなみ海道や尾道U2などと繋がり、その延長としての佐賀関があってもいいですよね。そのためにも人が育つことが最も重要なことだと思います。(精錬所などの)歴史を分かり易く伝えることでその一助になればと思います。」

しまなみ海道(フリー画像)
佐賀関サイクリングロード

※注1
JX金属
JX金属株式会社(ジェイエックスきんぞく、JX Metals Corporation)は、銅を中心とする非鉄金属製品の製造・販売などを手がけるENEOSホールディングスの中核事業会社である。事業は資源開発・金属製錬・電材化工・環境リサイクルの4つに大別される。資源開発では鉱山権益の拡大など非鉄金属資源の開発を手掛ける。金属製錬では、子会社のパンパシフィック・カッパー株式会社(PPC)がPPC佐賀関製錬所で銅製錬などを行っている。またパンパシフィック・カッパーは非鉄金属の販売も行う。電材化工では電子機器に使用される銅箔や化合物半導体などの製造、精密圧延などの精密加工を手掛ける。環境リサイクルではリサイクル原料や産業廃棄物からの有価金属の回収を行っている。(Wikipediaより)

※注2
日鉱式自溶炉
生産効率の向上と公害防止に万全を期すため、銅精鉱が自らの酸化熱により溶解・分解するためエネルギー効率が良く、硫黄分の回収率も極めて高い自溶精錬法を採用。さらに高温熱風の吹き込み、送風の酸化富化など、日本鉱業独自の改善によって日鉱式自溶炉に進化させた。(新日鉱グループの百年より)